研究紹介

樋口康一教授 日本で唯一無二,モンゴル語の仏典研究者
モンゴル語の古い仏教経典から見える,異文化接触と異文化受容は,現代の日本や世界が抱える問題に通じる。
法文学部 教授 樋口康一

日本語と似て非なる言語モンゴル語も発祥は象形文字

─モンゴル語の研究をされているということですが?
 モンゴル語の語順は日本語とほとんど同じです。モンゴル語の文の単語一語一語をそのまま日本語に置き換えれば,日本語として立派に通用する文になります。そのくせ,似ている単語はほとんどありません。発音も文字もまったく違います。現在,モンゴル国ではロシア式のアルファベットを使いますが,中国の内蒙古自治区では,縦書きするモンゴル文字を使用しています。ちなみに,モンゴル人は世界中に点在し,なかでも,内蒙古自治区のモンゴル人の総人口は500万人を超え,モンゴル国の総人口を凌駕しています。
 モンゴル文字は純然たる表音文字。縦書きですが,日本語とは違って,行は右側に続きます。もともと西アジアが原産の文字を,モンゴル語を表記できるように改良したもので,13世紀以来ずっと使われています。さらにその先祖をたどればエジプトの象形文字に遡ると考えられています。もっとも,アルファベットもアラビア文字も,その起源は同じくエジプトの象形文字。ユーラシアの広い範囲で,今は全く違う文字を使っていますが,元をたどれば同じ祖先から生まれた文字を使用していることになりますね。
 
モンゴル語の教典を研究する日本でただ一人の研究者

─研究にはどのような文献を?
 
 私が選んだのは,言語資料として大きな価値を有しているお経。翻訳されたのは元朝時代ですが,その時代の口語の実態はほとんど不明で,それをうかがい知る絶好の材料が,お経です。また,他の文献にはないような古い語形を見つけることは,宝探しのようで楽しい作業です。日本でモンゴル語のお経を専門に勉強している人,正確に言うと,していた人もほとんどいません。
 モンゴルに仏教をもたらしたのはチュルク系のウイグル人で,お経そのものはチベット語が原典ですから,精査すると当時のウイグル語やチベット語の影響が至る所に観察できます。言語接触を通じて導入した外来語と,固有語を組み合わせることは,現代日本語と通じるものがあります。また,チベット語やサンスクリットの原典と比べてみると,誤訳が見つかります。何をどう誤訳したのかをたどると,当時のモンゴル人の知識層が外来文化や外国語をどのように消化し,どの点で消化不良だったのかが分かります。これも現代日本に通じる現象ですね。異文化接触と異文化受容は,ボーダーレス社会が実現しつつある現在,地球規模で生じ得る問題。お経には現代的な問題を考える手がかりになる可能性があるのです。
モンゴル語
モンゴル大蔵経所掲の仏像を紹介した書籍。モンゴル語と漢語で表題が印刷されている。
後継者の育成とモンゴル人学生の受け入れ
 
─これからの目標は?
 
 われわれの研究は,話題性や実用性には乏しいのですが,無意味ではありませんし,途絶えては困ります。先ほど申し上げたように,切り口ひとつで現代的な課題ともつながる内容です。後継者が大量に現れるのは難しいかも知れませんが,私の研究を継承してくれる学生がいつ現れてもいいように,整備しておくのは責務だと考えています。学生には,たまに冗談半分で,今始めても世界で五指の研究者になれるよと言っています。この研究をしているのは事実上,日本で私だけですから。
 私の研究に限らず,人文学科で行われている研究は,技術開発や新産業創設に直結するものではありません。人間が人間らしくあるための基本中の基本である人文知を深めるものです。地方大学で地道ではあっても着実に展開されているいろいろな試みに,もっと注目してもらえる仕組みを工夫しなければなりませんね。
 また,現地調査を通じて,中国やモンゴルの研究者と交流する機会が増えたのですが,彼らが要望するのは,学生をぜひ日本で学ばせたいということです。日本のモンゴル研究は,世界的に見てもたいへん水準が高い。その成果を少しでも現地の若い学徒に伝えることも,私の大事な仕事だと最近考えるようになりました。前途有為な学生たちが,本学で学べるように,できるだけの手助けをしたいと思っています。
紙幣の見本
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