言語の本質の解明に向けて

塚本先生 朝鮮語(韓国語など他の呼び名もありますが、言語学では学術用語としてこのように呼ぶのが一般的です)が語や文の仕組み上、日本語と非常によく似ていることは、今では広く知られていますが、今から30数年前に大学に入学して朝鮮語を勉強し始めた頃、外国語であることが信じられないほど日本語と似ていることに驚きました。その中でも特に次のような例は衝撃的でした。
 (1) a. そんなことはあるはずがない。
    b. 그런  것은  있을  리가  없다.
     Kulen kes-un issul li-ka epsta.
(1b)において、「그런<kulen>」は「그렇다<kulehta>(そうだ)」という形容詞の連体形現在、「것<kes>」は日本語の「もの」や「こと」に相当する名詞、「은<un>」は日本語の「は」に相当する話題を表す助詞、「있을<issul>」は「있다<issta>(ある;いる)」という存在を表す動詞の連体形未来、「리<li>」は日本語の「はず」に相当する名詞、「가<ka>」は日本語の「が」に相当する格助詞、「없다<epsta>」は日本語の「ない」「いない」に相当する非存在を表す動詞です。従って、(1a)に示された日本語の文を先頭から順にそのまま朝鮮語に置き換えていけば、(1b)のように朝鮮語の文全体ができ上がってしまうのです。
 このように、確かに似ているところばかりが目立つのですが、より注意深く見てみると、両言語間で違いがあるのをさまざまな箇所で見つけ出すことができます。私はこれまで、両言語間でどういった違いがあり、なぜそういった違いが生じるのか、その原理や法則性を明らかにしてきました。

研究の特色

  ここでは、具体的な事例を一つだけ取り上げ、両言語間で違うところを示しましょう。
(2) a. 先生が学生に一生懸命に本を読ませた。
  b. 선생님이    학생에게      열심히   책을   읽혔다.
    Sensayngnim-i haksayng-eykey yelqsimhi chayk-ul ilkhyessta.
この例は、「先生が学生に本を読ませた。」という日本語の使役と呼ばれる構文と、それに対応する「선생님이 학생에게 책을 읽혔다.<Sensayngnim-i haksayng-eykey chayk-ul ilkhyessta.>」という朝鮮語の使役と呼ばれる構文の中で、それぞれ「一生懸命に/열심히<yelqsimhi>(熱心に;一生懸命に)」という様態を表す副詞を用いて表現したものです。(2a)について日本語の母語話者に尋ねてみると、一生懸命なのは、「学生が本を読むように先生が仕向ける」といった引き起こす方の行為と、「学生が本を読む」といった引き起こされる方の行為の2通りに解釈できると答えます。ところが一方、(2b)について朝鮮語の母語話者に尋ねてみると、その前者の解釈だけが可能であり、後者の解釈は認められない、という答えが返ってきます。つまり、両言語間の違いは、一生懸命なのが「学生が本を読む」といった引き起こされる方の行為であるとの解釈が日本語では成り立つのに対して、朝鮮語では成り立たない、ということです。(本来は、この使役構文以外のいろいろな形態や構文についても見た上でもっと詳しく解説する必要がありますが、スペースの都合上、割愛することにします。)
 上記のような両言語間の違いを引き起こしている根本的な要因として、(3)に示す「語と文の成り立ちの違い」を導き出すことができます。
(3)「語と文の成り立ちの違い」という根本的な要因
  日本語――語と文が重なり合わさった性質のものが存在する仕組みになっている。
  朝鮮語――語なら語、文なら文といったように、基本的には語と文の地位を区別する仕組みになっている。
  (このことを図示すると、次のようになります。)

図

こういったことが根本にあるため、さまざまな箇所で両言語間の違いとなって現れるのです。
 一つの言語のみを見ていると、その言語においてどういったことが生じているのか、ということになかなか気がつきません。たとえ気がついたとしても、他の言語でも生じている極めて当たり前のことと誤認してしまっている場合も頻繁にあります。また逆に、先入観から、その言語だけに生じている特別なことと思い込んでしまっている場合さえあります。
 言語については、また別の言語を通して見ることにより、その一つの言語のみを見ていた時にはわからなかったことが発見できるのです。こういったことは、日本語についても決して例外ではありません。
 私は、今述べたことを実践しており、上記の「語と文の成り立ちの違い」という根本的な要因を導き出すとともに、日本語は、音と文の仕組みについては決して特別ではないと判断できる様態になっているが、語の仕組みについては他の言語では見られない独自性を示す、ということを明らかにしました。

研究の魅力

 言語学は、上述した私の研究内容からもわかっていただけるように、目には見えない、言語の奥底に潜む原理や法則性を導き出すことによって言語の本質を解明する学問です。普段からその言語と向き合っていると、本当に不思議なことやおもしろいことに数多く出会います。それだけでも非常に楽しいことなのですが、自身が言語について分析や考察を行うことで、これまで世界中の誰もが知らなかったこと、わからなかったことが明らかになるのです。そんな幸せなことはありません。この幸せを味わえることこそ、研究の最大の魅力であると言えます。

写真1:客員研究員として訪問していた米カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の図書館の研究個室にて
写真2:米カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の先生方・学生達と

研究の展望

 私はこれまで、日本語と朝鮮語を中心に研究を行ってきましたが、それ以外のトルコ語、モンゴル語、満洲語などアジアの諸言語にも大いに興味・関心を抱いていますので、今後は、研究の範囲をこれらの言語にも広げていき、何が言語普遍的(どの言語にも共通する性質のこと)であり、また何が言語個別的(特定の言語しか有さない性質のこと)であるのか、ということの解明に貢献できれば、と願っています。
 さらに、言語について考えをまとめ上げたものが言語理論と呼ばれますが、これまで言語理論の多くは日本国外において特に英語研究の中から提唱されたものでした。近年、日本語研究の中から、従来の言語理論とは異なった言語理論を提唱して世界に発信していくことが期待されており、こういった状況下、私の場合は、朝鮮語など他の言語と対照した日本語研究でそれを目指していきたいと思います。

この研究を志望する方へ

 日本では一般的に、多くの知識を有していることが尊重され、評価されます。関連する知識が全くないところから新たなことを言うのはどんな天才でさえも不可能ですので、決して知識を軽んじるつもりはありませんが、言語学では、最小限以上の知識は要りません。変な知識はない方がいいのです。
 それよりもまず、言語は形を伴っていますので、言語そのものを自分の目でよく見てください。次に、言語は音を伴っていますので、言語そのものを自分の耳でよく聞いてください。そして、最も重要なのは、見たり聞いたりした言語について自分の頭だけを信用してよく考える、ということです。
 普段から意識してこういったことを実践するようお勧めしますが、きまじめに取り組むだけでは意味がありません。充実した人生になるかは、学問の世界でいかに遊び、楽しむことができるか、にかかっていると思いますので、そういう自分になれているかどうか、時々見つめ直してあげましょう。