遺伝暗号物質の制御から迫る、神経発生のメカニズム解析および神経・精神疾患の分子病態解明
※掲載内容は執筆当時のものです。
脳がどのようにできるのか、そのメカニズムを解明する!
研究の概要
脳は、全身の臓器の中で特に高度な機能と複雑な構造を持ち、ヒトがヒトであるための最も重要な臓器です。脳は部位ごとにそれぞれ特殊な機能を担っていることと、複雑な構造のために壊れた時に簡単に元と同じ構造に再生できないため、一度脳の病気でその機能が失われてしまうと回復が難しいことが良く知られています。例えば、脳梗塞、脳出血、脳腫瘍、パーキンソン病やアルツハイマー病や筋萎縮性側索硬化症(ALS)などの神経変性疾患などがそうです。
このように複雑な脳ですが、赤ん坊の時に脳ができる過程では、均一な未分化の細胞からなる非常に単純な構造からスタートして徐々に複雑な形になっていくことが知られています。例えば、胎児期の脳を構成する細胞は大きく分けると、神経細胞と言われる神経の回路を構成する細胞群と、その細胞が働くための環境を整えるグリア細胞と、それらを産生する大本の神経幹細胞いう3種類だけです。また完成した脳では、脳の場所ごとに神経細胞、グリア細胞ともそれぞれ特化した機能を持つようになり、軸索という突起により相互に回路を作り、脳全体として複雑な構造となりますが、それも徐々に起こります。そこで、脳ができるメカニズムを明らかにできると、その知見を応用することで壊れた部分を直したり再生させることが可能になるという夢が開けます。また逆に、これまで原因不明とされていた脳の病気が、脳のできる過程のどこかに異常を生じるために発症するということもだんだん分かるようになって来ました。
研究の特色
高校で生物を勉強している学生さんは、セントラルドグマとかオペロン説というのを聞いたことがあると思います。ヒトの細胞は、発生の過程で予めプログラミングされた機構と、さらに外界の刺激に反応することで、細胞の中で必要な機能タンパク質をコードする遺伝子を発現し、それをタンパク質に翻訳することで必要な部品を作り、細胞それぞれが担う特殊な機能を発揮するようにできています。脳ができる過程は、まさに神経細胞やグリア細胞が様々な遺伝子を発現することでそれぞれが特殊な機能を持つようになるので、遺伝子発現のメカニズムを明らかにすること=「転写因子コードの解読」により神経発生のプロセスを完全に理解できるのではとずっと考えられてきました。
ところが、ヒトの全遺伝子22,000の中に転写因子は1,600~2,800個くらいしかないので、高度で複雑な機能と構造を持つ脳をつくるのにはもっと複雑な遺伝子発現制御があるはずと考えられるようになってきたことから、私は発現した遺伝暗号物質をさまざまに制御するRNA結合タンパク質を対象に、それが脳の発生においてどのような機能を持つかを研究しています。
研究の魅力
私がこの研究を始めた時は、脳でのRNAの制御因子を標的にした本格的な研究はまだほとんどされていなかったため、自分がこれまでやってきた転写因子から脳の発生を研究する手法を応用することで、それまで明らかとなっていなかった神経発生の謎を色々と解き明かすことができました。自分達で出したデーターを見て、そのことを自分が世界で初めて発見したと思うワクワク感は研究者なら誰もが感じるものです。また、新しい技術を取り入れながら色々な専門分野の研究者と協力して解析したことで、好奇心が刺激されるような新しい世界を垣間見るような経験ができました。
今後の展望
何年かの研究で、この未開の地にはたくさんの面白い制御機構が埋蔵されていることが分かりましたが(金山・銀山や石油の油田のようなものかと思いました)、実際にRNAの制御因子は1,500個以上もあり、その機能が明らかとなっていない分子がまだ数多くあるので、今後は闇雲に掘るのではなく、上手に鉱脈のようなものを探しあてて研究することで、まだ未解明の脳の細胞の発生・分化、回路形成、脳の高次機能を制御する分子の同定とその機能が解明され、さらに脳の病気の原因を明らかにしていきたいと思っています。
またRNAの制御因子の研究は時間がかかる実験が多く、さらに個々の因子の機能を明らかにするだけでなくそれらが相互に関連しながら遺伝子発現全体をどのように制御しているかというシステム・バイオロジーという概念を取り入れていくことも必要なので、今後どのように研究を加速し、さらに高次の制御を解析していくか、技術開発等もしていく必要があります。
この研究を志望する方へのメッセージ
サイエンス(科学)はどんどん進歩しており、ここ数十年の脳の研究は、遺伝子の発現解析、試験管(今ではエッペンドルフチューブ)の中での分子の機能の解析、細胞、脳の組織、マウスの個体を使った生体での機能の解析、更にコンピューターを駆使した大規模なデーター解析やデーターベースを参照した解析等、実に様々な研究方法を複合的に組み合わせて解析する「集学的なアプローチ」により行われていて、またこれらの研究のエキスパートが協力して行うスタイルになりつつあります。
私がこれまでに見てきた素晴らしいサイエンステイスト(科学者)は、皆好奇心が旺盛で、他の人が思いつかないような自分独自のアイデアを試して何かを解明したい、またこういうことをするとひょっとして世界を変えられるのでは、というワクワクする気持ちを持っている子供のような人達でした。
サイエンステイストは実にさまざまな能力を駆使して日々の研究をしているので、学生のうちに自分の直感を信じて、興味のあるあらゆる事を一所懸命勉強しておくと、後からそれが大きく花開くと思います。むしろ学校の先生の言うことを聞かないような人の方が大成するのではと密かに思っています。
私はそのような若い人たちと一緒に研究をして、まだ自分が知らない世界を自分たちの手で明らかにして見てみたいと心から願っています。