「よりよく知る」ことのできる教員の養成に向けて

img_0058 学校教員はそれぞれの子どもの学習状況や日々の様子に合わせて授業づくりや声かけを工夫しています。それはときに「わざ」とも言えるような絶妙な立ち振る舞いとして形容できます。しかし同時に、学校教員は自分の教育実践が本当にこれでよかったのか、よりよい応答の仕方があったのではないかと不安に思ったり、悩んだりするかもしれません。そのとき、自分の教育実践を方向づけたり裏づけたりしてくれる科学的な根拠(「エビデンス」)があったらどうでしょうか。たとえば、「あなたの教育実践によって子どもの脳のある部分では活発な神経活動が生じています。だから、あなたの教育実践はすばらしい効果をもたらしています」などと言われれば、それを拠り所に自信を深めることができるかもしれません。
 近年、実証科学的な「エビデンス」に基づいて教育政策や教育実践を決定・評価しようという動向が強くなっています。教育研究者にはどのような政策や教育方法が効果的なのかを示すことが要請され、教員には自分の教育実践が有効であることを学力調査の結果などに照らし合わせて説明することが求められています。なかでも脳科学はより客観的に、また誰にとっても明確で透明な「エビデンス」を提供してくれると期待されています。しかし、安易にそうした「エビデンス」に頼ることは、はたして望ましいと言えるのでしょうか。私が問題にしたいのは、脳科学の知見が正しいかどうかではありません。自分の教育実践を裏づけたいがために「エビデンス」に頼ろうとすることで、何かが失われるのではないか、とくに教員が自分たち自身で教育実践を改善していこうとする専門的資質が見落とされるのではないか。これが私の最近の研究テーマです。

研究の特色

 脳科学の「エビデンス」を教員がどのように受け入れるべきなのか。このことはすでに英米独を中心に議論がなされています。脳科学の「エビデンス」がそのまま教育実践に応用可能だという憶測は「神経神話」であるとして、脳科学者や教育学者、あるいはOECDなど、様々な研究者や機関が警鐘を鳴らしています。ところが、英米独での教師へのインタヴュー結果を見ると、教師は自分の教育実践が正しいことを証明してくれる脳科学研究の知見だけを受容する傾向にあることがわかります。自分に有利な情報だけを信じたくなるのはよくあることです。脳科学の「エビデンス」それ自体が正しいかどうかではなく、それを受け入れたくなるのはなぜなのか、そしてどのように対応するべきかを考える必要があります。
 一方では、脳科学やそのほかの文脈で言われている「エビデンス」には、教育に対する特定の見方や効果測定における特異性があることを理解しておく必要があります。たしかに学校の日々の活動の中で信じられている教育観や子どもに対する見方には、自分たちの経験則に頼りすぎているがために誤っていたり、狭い捉え方になっていたりするものもあります。そのとき、脳科学や心理学の力を借りてデータを取り、検証することはとても大切だと言えるでしょう。しかし、そうしたデータもある一定の限界性をもっていることを自覚しておかないと、その限界性を超えて本来は当てはまらない場面にも適用してしまうかもしれません。
img_0037 他方で、そのような「エビデンス」とうまく付き合うためにも、教員が「よりよく知る」ということが重要になってきます。そこから導かれるのは単に、脳科学の専門的な知識を(わかりやすいかたちで)正しく理解しなければならないということに限りません。私は、認識論という哲学分野で近年展開されている「徳認識論」の議論を援用して、教員に求められる「知的な徳」、つまり単に物事を知るのではなく、よりよく知るために必要な態度や性格を研究しています。そうすることで、自分の教育実践が正しいのかどうか不安になるときに、安易に「エビデンス」を信じてしまうのではなく、批判的に「エビデンス」を引き受けるために必要な資質を明らかにすることができると考えるからです。
 徳認識論、なかでも応答責任主義と呼ばれる立場では、真なる知識とは何かを追究してきたこれまでの認識論に対して、よりよく知るためにどのような態度や性格が望ましいのかが考えられています。たまたま正しい知識を得たり、どのような意義があるのかを知らないのに知識を覚えたりする人よりも、様々な可能性を検討したり、他の人の意見に耳を傾けたり、粘り強く考えたりして知識を得る人の方が望ましいように思えます。たとえ後者の人が間違った知識にたどり着いたとしても、前者の人よりも望ましいと考える場合もあるでしょう。すると、何かを知るということには、真なる知識を獲得すること以外の価値が含まれていることになります。応答責任主義はそこに注目するわけです。
 たとえば、「謙虚さ(humility)」が大切だと言われます。自分が正しいと思っていることは実は間違いかもしれない。そう思うことは、他の人の考えに耳を傾けることと関わっています。「開かれた心(open-mindedness)」と呼ばれます。また、「知的な勇気(intellectual courage)」も必要です。自分が間違っていることを認めることは勇気のいることだからです。その他様々な「知的な徳」が挙げられますが、こうした徳に注目することで自分の教育実践を正当化してくれる「エビデンス」を安易に信じることは不十分だということが言えるのです。
 優れた教員集団はこれまで、授業研究等を通じて自分たちの教育実践がよかったのかどうかを、子どもたちの反応や様子に照らし合わせながら考え、改善してきました。そうした教員の専門的な資質や能力をふまえると、先に挙げた「知的な徳」がいかに重要だったかがわかります。もし目先の教育成果(たとえばテストの点数)を上げるために、あるいは自分の教育実践が正しいと説明したいがために、「エビデンス」に頼りたいという思いが教員に芽生えるのだとすれば、こうした「知的な徳」を教員に求められる資質や能力として捉え直してみることが大切なのではないでしょうか。

研究の魅力

 現代の教育改革では、学力向上や自己有用感の増加など、数値によって測定可能となった指標が多く用いられ、その短期的な成果が求められがちです。こうした動向は、保護者や地域住人の理解を得るためにある意味必要なものであり、説明責任を果たすことは教員や学校にとって今後ますます重要になってくることでしょう。しかしながら、短期的な成果を目に見えるかたちで示すことが要請されている中で、自分の教育実践を正当化したいがために脳科学など実証科学が提供する「エビデンス」に頼ってしまうことは、自分の教育実践を子どもの反応や様子といった広い意味での「エビデンス」に基づいて改善しようとする教員の専門職性を失ってしまいかねません。たしかに、徳認識論で言われている「知的な徳」自体はそれほど目新しいものではありません。しかし、教育哲学は自分たちが当たり前だとしているものに目を向け、明るみに出すことで、新しさを追究するよりも、すでにあるものを見つめ直すことに重点を置く研究方法です。見えているはずなのに見えなくなっているものを見えるようにする。そうすることで、今私たちが陥りがちなものの見方に反省を加えることができる点に研究の魅力があると言えるでしょう。

今後の展望

 「知的な徳」は教員に求められるだけでなく、子どもたちにも身につけてもらいたい態度や性格です。何かを学ぶとき、単に正しい知識を獲得するだけでなく、他者とともに試行錯誤をしながら知ってほしい、というのは多くの教員の願いではないでしょうか。「知的な徳」は「知る」という活動の中にも道徳的な側面が含まれていることに気づかせてくれます。そうすると、たとえば道徳教育を「知的な徳」から考え直してみることができるかもしれません。道徳教育は「道徳の時間」(今後教科になります)だけでなく、学校教育活動全体でも行うべきだとされています。つまり、日本の学校教育では、各教科でも道徳教育をすることになっているわけです。しかし、そこで実施されるのはたとえば「生命尊重」を理科の授業で扱うというように、道徳的価値に限定されているように思われます。ところが、「知的な徳」に目を向けると、より広い視点で各教科での道徳教育を考えることができます(たとえば、話しあいによって授業内容の理解を深めさせようとするとき、子どもには他者の意見に耳を傾ける謙虚さを身につけてもらうことが必要です)。実際、「知的な徳」に焦点を合わせて教育を行っている事例が海外では報告されています。今後は、そうした可能性を追求していきたいと考えています。
 また、脳科学や「エビデンス」を受容したくなる背景として、様々なモノや仕組みのネットワークを考えることができます。アクター・ネットワーク・セオリーと呼ばれる考え方では、科学の発展を様々なアクターの相互関係から説明します。正しいとされる知識はそれだけで正しいとされているわけではなく、それを支持する人々や「正しい」と示す実験器具、報告書や出版物の流通などが関わっています。たとえば、人工妊娠中絶をすべきかどうかで親が悩むという事態は、お腹の中の赤ちゃんが人のかたちとして見えるような画像技術の発展に大きく左右されています。同じように、学力調査の結果が重視されるようになった背景には、PISAや全国学力調査といった国際的・全国的調査が確立し、また、それを身につけるべき「学力」と同一視するような報告書などが流通したからかもしれません。そうしたモノや仕組みのネットワークが整ったことを背景として、教員の教育実践に関する語り方や見方が影響を受けているのだとしたら、「エビデンス」を受容したくなる傾向を分析するためにはそうしたアクター間の相互関係を考察する必要があります。

この研究を志望する方へのメッセージ

 実際の教育実践を取り巻く様々な語りには、哲学的に見て検討の余地のあるものが少なくありません。哲学的なアプローチは教育実践に直接役立つというわけではありませんが、そこで語られることの前提を問い直すことで、いつのまにか縛られているものの見方を転換してくれる可能性を秘めています。もちろん、そうして提示された見方も数ある味方のうちのひとつかもしれませんが、教育哲学は哲学的なアプローチを用いることでオルタナティブ(=もうひとつの見方)を追求することができます。それはもしかすると、効果的な教育方法を提供しないという点で「弱い」思考なのかもしれませんが、「弱い」からこそ見落とされがちな側面に目を向ける点で倫理的なものでもあると思います。

この研究活動は、教員の実績ハイライトにも掲載されています。

 教員の実績ハイライトとは、教員の「教育活動」「研究活動」「社会的貢献」「管理・運営」ごとに、特色ある成果や業績を精選・抽出したもので、学内のみならず学外にも広く紹介することとしています。

平成28年度教員の実績ハイライト(PDF 644KB)

研究者プロフィール