熱帯泥炭湿地林の生物多様性と維持機構
※掲載内容は執筆当時のものです。
熱帯のジャングルで泥沼の中をはいずりまわる
熱帯多雨林は生命の宝庫と表現されることがありますが、一口に熱帯多雨林といっても多くのタイプの森林があります。熱帯低地常緑林・山地常緑林・山地林や季節林などが代表的なものです。それ以外にも、沿岸低地帯にひろがるマングローブ林なども有名ですが、その内陸部には淡水湿地林や泥炭湿地林とよばれる森林が広がっています。
この泥炭湿地林は、熱帯の水がたまりやすい場所で植物遺体が水に浸かったまま分解せずに堆積した有機質土壌の上に成立する森林です。言い換えると何十年から何百年ものあいだ、樹木の枝や葉を水にひたしてできたものが泥炭で、その上に樹木が芽を出して成長して森林となったのが泥炭湿地林です。ときにはこの泥炭の厚さは20mにも達します。
私達の研究室では、インドネシアにおいて泥炭湿地林における樹木の一生に関わる研究を行ってきました。その内容は、樹木が種子を生産するしくみ、発芽した実生の更新、若木〜親木にかけての成長と樹木の多様性が維持されるしくみ、植物群集を成立させる要因の解明などについてです。これらの研究により、炭素循環・水文学的過程・植物の動態が密接に関わった湿地林特有の生物多様性維持機構を解明しています。
研究の特色
ここでは木本種の結実と動物による種子の捕食についての研究の例を挙げたいと思います。種子の捕食とは種子を好む動物や虫などによって種子が食べられることをいいますが、熱帯泥炭湿地林にも多様な樹木があり、種子が捕食されやすい種や捕食されにくい種があります。また、代表的な捕食者である陸上ほ乳類の活動は、水位が上昇する雨期に低下します。地表面が水に浸かっているために、地上での活動が制限されるからです。ここで、樹木の種子が結実する季節を調べると、捕食されやすい樹種の種子は、陸上ほ乳類の活動が制限される雨期に集中しています。また、捕食されにくい樹種の種子は、乾季や雨季とは無関係に結実していることが明らかになりました。
このことは、泥炭湿地林の植物動態・動物の生態・水文学的過程が密接に関わっていることを示すと同時に、泥炭湿地林の保全を考える上でも非常に重要な示唆を与えてくれます。現在、残存する多くの泥炭湿地林では、一部の大きな樹木が伐採されています。また、伐採した樹木を搬出するために、水路を掘って森林の水位を低下させます。ここから以下の仮説が導き出されます。
1)食べられやすい種子の結実は、水位の上昇がきっかけとなって引き起こされるのならば、水位が低下したままの森林では種子は結実せずに更新が妨げられる可能性がある。
2)仮に食べられやすい種子が結実したとしても、捕食圧は下がらないために多くの種子が食べられ更新が妨げられる。
現在、これらの仮説を解明するための研究が継続されております。この研究のように、これまでの研究や観察をもとに仮説をたて、それに関する調査をおこない、新たな知見を基盤として熱帯林の保全・管理につなげていくことが大事です。
研究の魅力
泥炭湿地林研究の魅力はいくつもあります。例えば、上に書いた種子とほ乳類の研究は4年以上の観察と調査が成果となりました。他にも、数千個体の樹木の種子とその発芽の状態や生死を毎週追跡したり、1haの範囲にある1万本以上の樹木の樹種・サイズ・位置を記録したりと、地道な作業の積み重ねが野外研究の基盤となります。この地道で単純な作業をこなしているうちに、自然界の中にある様々なパターンについて思考を巡らし、様々な妄想や仮説をたてることができます。最終的に、データと仮説が成果になったときの喜びはなにものにも代えがたいものとなります。
海外での調査も魅力の一つです。時には、森の中に数日間宿泊をして調査をすることがあります。そんなときは、現地の村人数人とともに森の中に宿泊をします。彼らと一緒に生活をすると、大学では学べない彼らの森に関する知識や慣習は、驚くほど深いものです。また、気の合う仲間達との生活はとても楽しいもので、暗く深い森の夜もあっという間に過ぎてしまいます。冗談をいいながら、森の中に小屋を作ったり、井戸を掘ったり、森の中でいかにおいしいものを食べるかと試行錯誤を繰り返したりするのもとても楽しく、調査よりもそちらがメインになってしまいそうです。また、調査中に野生のオランウータンやサイチョウと遭遇することなどもあります。とにかく、体を動かして、頭も動かして調査をする。それがこの研究の魅力です。
研究の展望
熱帯泥炭湿地林は、地球温暖化問題との関連でとても注目を集めています。例えば、1997年に生じたエルニーニョ現象により、インドネシアの泥炭湿地林は乾燥しました。乾燥した泥炭は乾いた葉や枝なので燃えやすく、多くの泥炭湿地林が火災により消失しました。これにより、地球上の年間化石燃料の消費量の13%〜40%に相当する炭素が大気へと放出されて温暖化が進行したといわれています。そして、地球温暖化問題と関連して、多くの泥炭地における炭素動態に関する研究が行われています。一方で、この泥炭湿地林における生物の営みを取り扱った研究の数は少ないのが現状です。このような状況の中で、私達の研究室では、泥炭湿地林の基盤となる植物の動態やその営みを研究し、異なる観点から独自の知見を得ることによって、この地球環境問題に貢献していきたいと考えています。
この研究を志望する方へ
研究を通じて、フィールドから学ぶことはとても多いです。フィールドには森林があるだけではなくて、そこに関わって生活している人たちもいます。森林に関わる地球環境問題の解決には自然科学的な知識だけでなく、他のことにも目を向ける必要があり、多面的な考え方と旺盛な知的好奇心が必要とされます…。と、偉そうなことをたくさん書いてしまいましたが、私が泥炭湿地林の研究を始めたのは、単に海外に行ってみたかったのとジャングルに行ってみたかっただけというのが当初の動機でした。もちろん、熱帯林だったらどこでもよいと思っていましたし、当時は泥炭湿地林に関する知識も皆無でした。また、当時の指導教員に勧められてはじめて現地に入ったときは、だまされたとも思ったこともありました。ただ、結果論としてはよかったのではないかと思います。よくフィールドワーカーの間では、脳筋(脳みそ筋肉)とか肉体派という言葉が使われます。これは、頭よりも体を働かしてデータをとるタイプのフィールドワーカーという意味です。そういう意味では、この研究は脳筋の人も向いている分野ではないかと思います。もちろん高校で学ぶ国語・数学・英語の基礎知識はかなり役に立つので、ないよりはあった方がいいと思います。あと、脳筋でない人も私達の研究室ではちゃんとできるテーマもあります。最後になりましたが、とにかくフィールドへの一歩を踏み出して、フィールドワークを楽しむのが一番大事なことなのではないかと思います。