焼き物から人々の交流を探る

 三吉先生私の研究対象は、高校の教科書などにも登場する古墳時代の須恵器です。須恵器の中でも、日本列島において生産が開始した頃の須恵器を初期須恵器と呼びますが、この初期須恵器の研究を進めています。初期須恵器を焼いていた窯跡は列島に約20基あり、その一つが松山平野南部にある市場南組窯跡です。初期須恵器の生産には、朝鮮半島の陶質土器を製作していた工人が深く関与しており、単に製作技術がもたらされたのではなく、同時に様々な交流が行われていました。市場南組窯跡ならびにこの窯跡で生産されていた須恵器の研究を通じて、どのような交流が行われていたのかを研究しています。

研究の特色

窯跡周辺の様子

窯跡周辺の様子

 初期須恵器の窯跡は、かつて日本列島の中でも大阪府南部の陶邑窯にしか存在しないと考えられ、陶邑窯は、大和王権との深いつながりの中で開窯したと想定されていました。日本列島各地の古墳や集落から初期須恵器が出土しており、これらの遠隔地に初期須恵器が流通するのは、大和王権と結びついた政治的な影響力があったと考えられていました。“陶邑一元論”と呼ばれる考え方です。
 その後、陶邑窯以外でも窯跡が発見されるようになりましたが、初期須恵器が、政治的な背景の下に広域に流通していたという考えは今でも残っています。初期須恵器は、当時の最先端の技術を用いて製作された焼き物ですから、政治に利用されることもあったでしょう。
 しかし、その他の場合はなかったのでしょうか?市場南組窯跡で生産された須恵器は、松山平野を中心として、北は広島平野、西は大分県、南は県内では宇和盆地、宮崎県、鹿児島県、東は今治平野、岡山平野等にも流通しています。初期須恵器が政治的な背景の下で流通していれば、松山平野には初期須恵器を流通させうる巨大な権力を持つ豪族の存在を想定しなければなりません。しかし、そのような状況は見られません。政治的な背景とは別の背景を考えなくてはなりません。
 消費地の状況を見ると、いくつかのヒントが見られます。その一つには、日常の生活には使用できない器種が複数個まとまって出土している例があります。当時の最先端の技術で製作されるものでもあり、窯跡の数も少ないことから、初期須恵器は宝器化していたと考えられます。その宝器化した初期須恵器が流通していたとも考えられます。このように初期須恵器の性格を見直すことから、改めて、半島から須恵器製作技術を受容した背景や当時の地域間の交流を分析できるのではないかと考えています。

研究の魅力

 考古学はモノから過去の歴史を復元していきます。当時と変わらない竪穴式住居跡や古墳などの遺構に立ち、実際に使われていた土器・石器などの遺物などに直接触れることができます。モノを通して時代を超えた歴史の息吹を感じることができます。私の研究対象である須恵器は当時の工人が作ったものですが、これを実際に指でなぞると、まさに当時の工人の指使いまで伝わってきます。
 また、私が主な研究対象としている松山平野や瀬戸内に関する歴史資料は、文献記録である『日本書紀』『古事記』における記述では非常に限られています。一方、考古学の資料は豊富にあります。しかし、モノとして存在するだけで、モノは何も語ってくれません。考古学者が様々な観察や分析を通じて初めて歴史を物語ってくれます。文字や文脈から読みとる世界とは異なる点でもあり、魅力でもあります。

研究の展望

 市場南組窯跡の調査を行い、そこで出土した遺物の整理を行っていますので、半島との関わりを踏まえてまとめを行いたいと思っています。さらに列島には市場窯跡以外にも20基以上の初期須恵器を焼いた窯跡があります。最終的には、そこで生産された須恵器を含めて検討し、日本列島における須恵器製作技術受容の実態とその背景を明らかにしたいと思っています。

この研究を志望する方へ

 考古学と言うと、テレビや新聞で「最古の・・・」とか「最大の・・・」などの常套句と共に調査成果が報道され、華やかな面が強調されがちです。しかし、野外での発掘作業や長時間、土器や石器と向き合った作業が必要となります。特に野外での作業は、炎天下の下や、寒空の下での作業となります。そういう「しんどさ」もありますが、五感を通じて得られたデータを基に、過去の歴史を復元することは何にも代えがたいものです。