現在の発音から過去の発音を復元する

秋谷先生 私が主に研究しているのは,主に中国福建省(台湾海峡をはさんで台湾と向かい合っている省です)に分布する閩語(びんご)の音韻史,つまり発音の歴史です。閩語は中国語十大方言の一つですが,共通語である北京方言とはコミュニケーションは不可能です。英語とドイツ語以上の違いがあるといってもよいでしょう。日本でいう「方言」とはちょっとレベルが違います。閩語の内部もまたきわめて複雑に分岐しており,私が手がけている閩北方言群と閩東方言群の間でことばが通じることは通常あり得ません。閩北方言群内部,閩東方言内部で通じ合わないこともけっしてめずらしいことではありません。松山と新居浜くらい距離が離れると,しばしばコミュニケーションが困難になります。

 私の研究は次の二本立てです。
(1)フィールドワーク(現地調査)をおこない言語データを収集する
(2)そのデータに基づき過去の発音を復元する
 まず,現地に赴き,生え抜きの老人に「太陽」はなんといいますか,「月」はなんといいますか,「雨が降る」はなんといいますか……のように単語を聞いていきます。次に「今日はとても暑い」「彼は……で働いています」「もう一度いってください」などの簡単な文を土地の方言で翻訳してもらいます。

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中国福建省政和県でのフィールドワーク

 日本に帰国後,そのデータを音韻史研究に使えるよう整理,分析します。フィールドワークも容易な作業ではありませんが,調査データの整理,分析はそれどころではありません。ひかえめに見積もったとしても,研究時間の四分の三以上はこの作業に費やされているでしょう。延々と続く単調作業にひたすら耐えなければなりません。ここまでが研究の第一段階です。
 甲骨文字以来三千年におよぶ文字資料をもつ中国語ですが,その圧倒的大多数は各時代の共通語に基づいています。つまり地方方言の音声をそこから知ることはできません。そこで,比較方法(comparative method)という方法を用いて過去の音声を復元していきます。私は閩北方言群や閩東方言群に関してこのような研究をしているわけです。例えば「妹」は閩北方言群でmi,moi,mo,müeのようにさまざまな発音で現れます。くわしいプロセスは省略しますが,ここから,現在の閩北方言群に共通の祖先となるような言語(「祖語」という)が存在したとするならば,「妹」はmüəiのように発音されていただろうと推定できます。この例で言うと,müeが欠けていたとしたら妥当な推定はおそらく難しいでしょう。フィールドワークによるデータ蓄積の重要性をここに見て取ることができます。データが多いほど推定の確度が上がるのです。

研究の特色

 言語に関していうと,それが使われている現場に赴かなければ分からないことが多々あります。フィールドワークを自分でおこなった経験のある人であれば,誰でも知っていることです。印刷された言語データは,私自身のものも含めて,いわば似顔絵のようなものです。実際に本人に会ってみてびっくり仰天のようなことは日常的に経験するところです。にもかかわらず,さまざまな理由から,中国語方言を現地調査してやろうという研究者が減少しています。そのような中でフィールドワークを二十年以上切れ目なくおこなっていることが,おそらく私の研究の特色でしょう。私は何よりもまず「調査屋」であるわけです。

研究の魅力 

 私が調査する方言の中には,これまでまったくあるいはほとんど知られていなかった方言が多数含まれています。そのような方言をもしかしたら世界で最初に自分が詳しく調査する。調査したデータはすべて新データで,そこからこれまでに知られていない新たな知見を見いだすことができる。私の研究にとって「知見」とは,「過去の発音を知る手がかり」にほかなりません。自分の手でデータを積み上げ,少しずつ時間をさかのぼる。なぜ「妹」をある方言ではmiというのにすぐ近くの別の方言ではmoというのか,フィールドであるいは研究室で,ある日突然腑に落ちる。ささやかだけれども確固とした発見の連続。ここらへんがこの研究の魅力でしょう。

研究の展望

 閩語は,他の中国語方言とは異なるルートの発展を遂げてきました。そのこともあって,他の中国語方言には見いだすことのできない古風な特徴を多数保存しています。これら特徴は,「上古音」とよばれるおよそ三千年前の中国語音を復元するのに重要な意味をもっています。フィールドワークは定年まで続けるつもりですが,その一方で,上古音再構のような応用問題にも取り組みたいと思っています。日本人の平均寿命は八十二歳くらいだそうです。もしも,どこかの山奥で推定年齢三百歳の老人が生存していたとしたら,その人にいろいろと聞いてみたくなるでしょう。閩語とは年齢三百歳の老人のような方言です。閩語しか知らないことがたくさんあるわけです。今年の六月から八月まで中国語上古音研究の第一人者,ミシガン大学のウイリアム・バクスター教授が愛媛大学に滞在されるので,このあたりを一緒に研究したいと思っています。

この研究を志望する方へ

 まず,中国語(標準語)が話せないと困ります。次に「中古音」とよばれる隋唐時代の中国語標準音の暗記が不可欠です。私もそうでしたが,常人にとっては気が遠くなるほどの暗記量です。ですが,これは絶対に越えなければならないハードルです。また,言語学(特に音声学),中国語方言学なども勉強しなければなりません。要するに,研究を始めるまでの準備にかなり時間がかかります。ですから,中国語方言学を研究したい人は,大学生の時には中国語と中古音の習得に集中し,大学院進学後,中国の大学に留学して本格的に研究を始めるというのも一つのやり方だと思います。
 また,この研究は学力以外の要素が大きくものをいいます。なんでも食べられる,どこでも寝られる,こういったことが学力以上に重要となる局面に頻繁に出くわします。そして,ここ日本において中国語方言学が注目されたり重視されたりすることは普通ありません。こんなことして将来食っていけるのかどうかも定かではありません。それでも「自分はそういう星の下に生まれたのだ」と腹をくくった学生さん(愛媛大学でも他の大学でも)がおられるのであれば,私に連絡してください。アドバイス,援助は惜しみませんから。