元素の個性と環境化学
※掲載内容は執筆当時のものです。
化学の目」を武器に未知の環境リスクの予測を目指す
地球表層の微量元素動態について、環境科学的視点から研究を進めています。微量元素による環境汚染の歴史は古く、産業廃棄物の不適切な処理に伴う水俣病やイタイイタイ病の発生などが問題となりましたが、私の関心は少し違ったタイプの汚染です。
微量元素はそもそも環境中に普遍的に存在しており、通常その量は人為的な供給量よりも遥かに大きいです。生物は長い歴史の中で環境に適応して進化してきたため、通常は天然由来の微量元素が大きな問題を起こすことはありません。しかし、地球温暖化や海洋酸性化など、中〜広域的な環境変化が進行すると、微量元素の動態や毒性が変化し、広範囲の生態系に影響を与える可能性があります。問題物質の過剰供給にともなう汚染とは異なる性質を持つことから、このような汚染を便宜上「間接型」と呼んでいます。
研究の特色
研究の一例を示します。現在私が一番関心を持って取り組んでいるのは、近年貧酸素化が問題視されている琵琶湖での研究です。この貧酸素化は、経年的な気温上昇にともなう湖水循環の変化によるものと考えられています。2007年12月は特に酸素濃度の低下が著しく、イサザという魚の大量へい死が発生しました。この際、死亡したイサザを化学分析したところ、生存個体と比較して著しく高濃度のマンガンとヒ素が検出されました。これらの元素は、酸素が少なくなると溶けやすくなる性質を持っています。具体的には、マンガン酸化物とヒ酸イオンが還元され、マンガンイオンと亜ヒ酸イオンとして水に溶解します。
そこで、底泥・湖底水・イサザ死亡個体に含有されたマンガン・ヒ素の化学形態分析を実施したところ、貧酸素化の進行にともないこれらの元素が大量に湖水に溶け出し、イサザに暴露した可能性が示されました。気温上昇、貧酸素化、微量元素溶出と影響が伝播し、最終的に生物への移行量が変化した「間接型汚染」の実例です。
上記の例が示すように、微量元素の動態変化を詳しく調べるには、その元素の化学形態を知る必要があります。世の中には様々な化学分析法がありますが、水・岩石・生物など、対象によって最適な手法は変わってきます。
我々のグループでは、主力機器のICP質量分析計に、溶液試料中元素の化学形態分離に有効な高速液体クロマトグラフィーや、生物・岩石試料の局所分析が可能なレーザーアブレーションシステムを接続し、包括的な化学形態分析実験室を立ち上げています。また、大型放射光施設で実施するXAFS(X線吸収微細構造)法も、大気圧下で分子レベルの形態分析が可能であること、ほぼどんな元素にも適用可能であることから、非常に強力なツールとなっています。対象とする環境中の単一の相に着目するのではなく、物理化学的性質が大きく異なる複数の相を同時にしらべ、微量元素動態を解析するのが我々のやり方です。
研究の魅力
私にとって研究の魅力とは、「見えないものを見る目が養えること」だと思っています。もともと私は地球化学分野の出身で、水圏環境における様々な元素の動態を眺めることに没頭していました。周期表を頭に置きながら色んな微量元素の動きを追っていくと、「あの元素とこの元素は良く似てるけどたまに違う」、「あの元素は妙に生き物に好かれてる」など、元素の個性を敏感に感じられるようになりました。地下から湧き出る温泉、土壌成分を吸い上げて育つ植物、周囲を見渡すたびに、「あの元素はこう動くだろうな」と想像できるようになると、色々なことが楽しくなります。そうして身につけた力をベースに、できるだけ社会的意義の高いテーマに着手していければと考えています。
研究の展望
現在の大きな目標は「予測型の環境科学」の推進です。環境科学分野では、既に深刻な汚染が発生していると推測される地域の実態解明調査が主体ですが、環境学の理念からすれば、やはり事前に予測して予防したい。微量元素を研究の主軸として、「化学の目」を持った人間にしか予測しえない環境リスクについて様々な仮説を立て、観測的・実験的・理論的に実証し、政策提言につなげられるような研究を目指しています。
この研究を志望する方へ
専門研究の中には、将来何の役に立つのかわかりにくい学問もあるかもしれませんが、大切なのは研究活動を通して「自分でものを考える力」をつけることだと思っています。情報が錯綜する現代社会では、何を信じていいのかわからなくなることが度々あります。我々にとっては幸いなことに、正しく接してやれば元素は決して嘘をつきません。ですから、実験を通して目の前で起こることは、本や他人から伝聞したいかなる事柄よりも、強い説得力を持って語りかけてきます。たくさん実験をすればするほど、真理を見通す力は備わっていきます。その力は社会に出てもきっと役に立つと思います。ぜひ一緒に研究しましょう。