がん化学療法の個別化を目指して
※掲載内容は執筆当時のものです。
抗がん剤の「効く・効かない」を左右するSLFN11の謎に迫る
研究の概要
抗がん剤の「効く・効かない」は何が決めている?
がん化学療法は長年にわたり、がん治療の最前線で多くの患者さんを救ってきました。しかし、同じ抗がん剤を使っても、とてもよく効く患者さんもいれば、残念ながらほとんど効かない患者さんもいます。この違いの原因が分かれば、一人ひとりに、より効果が期待できる治療を選べるはずです。
そこで私たちが注目しているのが、SLFN11(Schlafen 11:シュラーフェン・イレブン)というタンパク質です。白金製剤などの抗がん剤は、がん細胞のDNAに傷をつけ、DNA複製を妨げることで細胞死を誘導します。しかし、がん細胞はなかなかしたたかです。いったんDNA複製が止まっても、さまざまな「逃げ道」を使って複製を再開し、傷つきながらも何日も生き延びる細胞が現れます。ところが、SLFN11を高発現しているがん細胞では、24時間程度でほとんどの細胞が死にます。その仕組みの一つとして、抗がん剤によるDNA損傷に反応して生じる特殊なDNA構造にSLFN11が結合して、いったん止まったDNA複製が再び動き出さないよう強力にブロックすることを明らかにしました。その結果、がん細胞は増殖を続けることができず、死に至ります。つまりSLFN11は、抗がん剤によるDNA損傷を、より強力な「細胞を死に導くシグナル」へと変えるタンパク質なのです。

SLFN11が抗がん剤の感受性に重要であることが最初に報告されたのは2012年です。私は当時、米国国立衛生研究所(NIH)で研究しており、そこでSLFN11と出会いました。当時、SLFN11のDNA損傷応答に関する論文はまだ一本もありませんでした。世界に先駆けてSLFN11を欠損させた細胞を作って調べてみると、抗がん剤を加えても、DNA損傷を抱えたまま何日も生き延びる細胞が現れました。顕微鏡下でその様子を見たとき、「これが患者さんの体内でも起こっているのであれば、薬剤耐性の一因なのではないか」と考えました。逆にSLFN11があれば、がん細胞は速やかに死んでいきます。「SLFN11はきっと医療に役立つ。研究人生をかけてもいい」と決意したのが2013年10月で、今でもよく覚えています。以来、ほとんど情報のない状態から、SLFN11がどのように働くのか、そして患者さんの治療にどう役立てられるのかを研究し続けています。
研究の特色
「化学療法にもプレシジョンメディシンを!」
現在のがん医療では、がん細胞の遺伝子などを調べ、一人ひとりに合った治療を選ぶプレシジョンメディシン(精密医療・個別化医療)が進んでいます。一方、白金製剤をはじめ、多くの抗がん剤については、「誰に効きやすいのか」をあらかじめ予測する方法が十分に確立されていません。そこで私たちは、「化学療法にもプレシジョンメディシンを!」を掲げ、SLFN11の臨床応用を目指しています。SLFN11はがん種にもよりますが、おおよそ半数のがん組織で発現しています。手術や生検で得られたがん組織のSLFN11の発現量を調べることで、「この患者さんにはこの抗がん剤が効きそうだ」と治療前に予測できれば、より適切な治療選択につながる可能性があります。SLFN11は一般的な免疫組織染色法で調べることができるため、臨床応用しやすいことも大きな特徴です。

一方、生命科学の視点から見ると、SLFN11には大きな謎があります。 抗がん剤が登場したのは、人類の長い歴史から見ればごく最近のことなので、SLFN11には「抗がん剤を効きやすくする」こととは別に、私たちの体の中で果たしている本来の役割があるはずです。SLFN11は、全ての細胞で発現しているわけではなく、マクロファージや血管内皮細胞、形質細胞など、特定の正常細胞で発現しています。これらの細胞で、SLFN11がどのような機能を担っているのかは明らかになっていません。
がん治療への応用を目指す研究と、「そもそもSLFN11とは何者なのか」という生命科学の根本的な問い。その両方を行き来しながら研究できることが、私たちの研究の特色です。
研究の魅力
世界で自分しか知らない瞬間――「せかじぶ」

研究の一番の魅力は、「世界でまだ誰も知らないこと」を、自分の目で初めて見ることができることだと思っています。大学院に進学するか迷っていた頃、すてきな大先輩から「世界で自分しか知らないことがあるって、すてきじゃん」と言われました。生命が誕生してから約35億年、その進化の過程で形づくられてきた、まだ誰も知らない生命現象を自分が発見する――その興奮は、研究ならではの醍醐味です。私は、そんな「世界で自分しか知らないかもしれない」瞬間を、「せかじぶ」と呼んでいます。
実験は、なかなか予想通りにはいきません。むしろ予想と違う結果が出ることの方が多いくらいです。でも、そこがおもしろいところです。自然科学はウソをつきません。だからこそ、「変な結果が出た」と片付けるのではなく、その結果を説明できる可能性をいくつも考えます。 教科書や常識に結果を合わせるのではなく、目の前で起きている現象に向き合います。その予想外の「せかじぶ」は教科書を書き換えるような発見かもしれないのです。
今後の展望
基礎研究の発見を、患者さんの治療へ

SLFN11が抗がん剤への感受性を高めることについては、現在では世界中から多くの研究成果が報告されています。一方で、その働く仕組みについては、DNAの複製だけでなく、転写や翻訳などさまざまな方向から新しい知見が次々に報告されており、まだ全体像が完全に見えたとは言えません。この複雑さそのものが、SLFN11研究のおもしろさでもあります。
SLFN11を薬剤効果予測の指標(バイオマーカー)として応用できれば、がん化学療法の治療効果向上に役立つと考えています。私たちはこれまで、国内外の研究者との共同研究を通じて、過去の患者さんの検体を用いた研究を積み重ねてきました。しかし、実際に医療の現場で使われるためには、治療前にSLFN11を調べ、その結果を実際の治療選択に生かせるかどうかを確かめる臨床研究(前向き臨床試験)が必要です。ところが、ここには大きな壁があります。私たちが対象としている抗がん剤の多くは何十年も使われ、すでに標準治療として確立されています。そのため、現在の標準治療に新しい指標を取り入れることは、決して簡単ではありません。また、個人レベルでの情報発信だけでは限界があります。 今後は、学会や製薬企業などとの連携も模索しながら、一歩ずつ前に進めていきたいと思っています。簡単な道ではありませんが、SLFN11を長く研究してきた者として、患者さんの治療に実際に役立つところまでつなげたい。それが今の大きな目標です。
研究は、とても贅沢な営みです。平和で安全な環境があり、多くの人の支えがあって初めて、まだ誰も答えを知らない問いを何年もかけて考えることができます。それを仕事にできている自分は、本当に幸せだと思っています。大学院生や学部生には、この感覚を共有しつつ、「せかじぶ」をたくさん経験してほしいと思っています。
この研究を志望する方へ
「今を生きる」ことの積み重ねが、いつか研究につながる
私は最初から研究者を目指していたわけではありません。医学部を卒業して整形外科医として働く中で、学術集会に参加したときに、「自分は知らないことが多すぎる。もっと勉強したい」と思い、大学院に進みました。研究を始めるとすっかり夢中になり、その後はアメリカで7年以上研究し、その途中でSLFN11に出会いました。帰国後は山形、そして愛媛へと移ってきましたが、振り返れば、その時々で自分が追究したい研究のできる場所を選んできた結果です。

高校生の皆さんには、まず目の前の勉強や活動にしっかり取り組んでほしいと思います。そして大学では、そこから興味を持ったことをたくさん学び、いろいろな人に出会い、たくさんの経験をしてください。今、興味を持てるものがなくても全然大丈夫です。 私自身、研究者になると決めたのは大学院を修了してからです。目の前にあることを一つずつやっていく中で、いつか「これをもっと知りたい」と思えるものに出会うかもしれません。そして、その出会いに気づくためには、それまでに培ってきた幅広い知識と論理的に考える力が必要なのです。私は、「今を生きる」ことの積み重ねが、いつか自分のやりたい研究につながると思っています。
